僕がパリへ移住したのは、2020年5月のこと。それから2023年5月までの3年間、フランスで生活をした。その間、一度もブログを更新できていなかったので、あらためて、経験してきたこと、感じたことなど、パリでの全記録を写真とともに残しておこうと思う。
パリへ移住する前の話
実は、2020年5月にパリへ移住する以前にも、短期滞在でパリ生活を経験していた。これは、2014年にパリ出身のフランス人女性と結婚したからで、移住とはいえ帰郷にも近い。
ただ、妻自身もパリを離れてから12年以上が経っていたし、僕たちが一緒に暮らし始めた2013年からの7年間は、バリ島に生活拠点を構えていた3年間も含め、世界を旅しながら働くデジタルノマド生活を続けていた。なので、パリへの移住には大きな決断が必要だった。
パリへの移住を決めた理由
国際結婚をしてから5年以上、僕たちは特定の住所を持たずに世界中を旅してきたわけだが、フランスに住むことを決めた最大の理由は、妻の母国での出産を優先したからだ。
デジタルノマドだった僕たちは、日本でもフランスでもない第三国で出産する可能性も考えていた。ただ、保険適用内の無痛分娩が一般的で、妻が母国語で話せるフランスに勝る選択肢は見つからなかった。
そしてパリはフランスの首都であり、医療レベルも世界的にトップ。妻の両親もパリに住んでいたため、当分はグローバルデジタルノマドの生活を中断し、パリに住もうと決めた。
2020年:コロナ禍でのパリ移住
モルディブ、インド、タイ、日本と旅してきた僕たちは、Trusted House Sitters (ペットの飼い主が長期休暇中に家とペットの世話を依頼できるオンラインサービス) で約2ヶ月間の猫の世話を前年に続けて引き受け、東京に滞在していた。僕は1年ぶりの東京で、港区にある在日フランス大使館で配偶者ビザを申請するなど、パリ生活に向けた準備を進めていた。
配偶者ビザの申請は、どうやら結婚直後にすることが多いらしい。とはいえ、結婚から5年が経っていた僕の場合でも、ビザ申請から発行までのプロセスはスムーズだった。
ところが、渡航を予定していた4月にはコロナ禍が本格的に始まり、水際対策で猫の飼い主が日本へ再入国できなくなった。僕たちも、高齢な妻の両親が住むパリへ戻る予定だったため、新型コロナへの感染を恐れ、フランス行きは延期して日本に留まることにした。しかしそれも決して簡単なことではなく、飛行機をキャンセルし、妻の日本での滞在期間を延長するため、当時大混乱していた東京出入国在留管理局に長時間並んで、特別にビザを延長して貰った。
その2週間後、妻がパリから父の訃報を受けた。
義父の急逝は、新型コロナ禍のせいだった。フランスはロックダウンで外出禁止が2ヶ月近く続き、また「自宅から1km範囲を1日1回だけ1時間以内なら」のような条件付きで許可されてからも、高齢者に対しては自粛要請が続いていた。そして外出禁止の段階的な解除が始まった翌日、マスク着用で久しぶりの散歩に出たときに急性心筋梗塞で倒れ、見回りの警察官に発見される前に路上で亡くなってしまったそうだ。
本当に、あまりにも急だった。妻は日本でのビザを延長したばかりで、かつ猫の飼い主はまだ日本へ再入国できない状況が続いていたが、とにかく少しでも早くフランスへ行く方法を探すしかなかった。日本は緊急事態宣言が出ている最中で、フランスはあらゆるビザの新規発行と観光目的の渡航を中止していた。
思いがけない形で始まったパリ生活
僕たちはあらかじめパリ移住を計画していたため、妻と離れ離れにならず共にフランスへ渡航できたことだけが、不幸中の幸いだった。もちろん、現実に直面したパリでの生活は想定外の連続だった。不安の渦巻くコロナ禍で、遺品整理を手伝い、妻の精神面をサポートする毎日。当初はパリ移住で妊活を始める予定だったのに、そんな雰囲気になれる状況でもなかった。
というわけで、当初のパリ移住の予定とは大きく変わり、悲しみと、不安と、喪失感をもって僕たちのパリ生活は始まった。このブログの更新も、もともと「頻繁に更新できていた」とは言えないけれど、デジタルノマドらしい情報発信ができず、完全に途絶えてしまったのだ。
ただ、パリで救われたのは、人々がとにかく優しく、移民へのサポートも充実していた点だ。OFII (Office Français de l’Immigration et de l’Intégration) ことフランス移民統合局が全4回の受講コースとなる市民講座に招いてくれ、フランスのことを学び直す機会もあった。
僕以外にも、OFIIの市民講座についてブログで書いている人はたくさんいる。パリへの移住を考えている人や、パリ生活の1年目について知りたい人は、ぜひ検索して調べてみて欲しい。日本とフランスの「移民」に対する考え方は本当に違い、学ぶことが多いと思う。
また、街中でも外国人だからといって特別扱いはされずフレンドリーな感じだ。結婚してから5年の間に僕がフランス語をそこそこ習得していたこともあるかもしれないが、外国人を見て「Where are you from?」と聞くような人が少なく、自然体で過ごせたおかげだと思う。
妻も、母国に自然と馴染んでいく僕の姿を見て少しだけ笑顔を取り戻し、コロナ禍で観光客のいない静かなパリ生活を少しずつ楽しめるようになっていった。とはいっても、笑顔の写真は僕の37歳の誕生日のときに撮影した1枚くらいしか残っておらず、辛い日々が続いていた。
2021年:パリ生活の現実と日々の奮闘
これまでにも短期で何度かパリ生活をしていたが、やはり長期で生活をしてみて初めて感じた「パリ生活の現実」もあった。パリ症候群という言葉が日本で有名であるように、そういったパリ生活におけるマイナス面があることは事実だと思う。
例えば、外出時に気軽に立ち寄れる公衆トイレが少なすぎること。そして、タバコの吸い殻や犬の糞などが路上に落ちていること。また、メトロで不快な匂いのする人がチラホラいることや、スリや置き引きを狙っている少年少女がいることは、以前から良く知っていた。
ただ、実際に住んでみると、メトロが遅れたり止まったりすることの多さや、Navigoという交通系ICカード(日本のIcocaやSuica)のエラー発生時に返金に応じてくれないポリシーの違いなどに困らされた。実際にスリの現場を目撃したり、電車でスーツケースを盗まれたりもした。他には、オンラインショッピングで「在庫あり」と書かれていた商品を購入したのに、1ヶ月経っても届かず結局キャンセルしたなんてこともあった。
辛抱のパリ生活から華やかなパリ生活へ
とはいえ、馴染みのお店での挨拶や会話はフレンドリーで心地よいものだし、バスやメトロでお年寄りに席を譲るのは皆当たり前。エレベーターの少ないパリのメトロでは、階段で荷物を運ぶのを積極的に手伝ってくれる人もたくさんいる。だから、マイナス面の回避ができれば、パリの人たちの優しくて親切な「良い面」の方が、むしろ日常的に感じられた。スーパーでのセルフレジ、スタッフ対応なども、もしかすると日本よりスムーズで、快適だった。柔軟性が高くて人間味のある接客サービスが多い点も、日本の機械的な接客より好きかもしれない。
しかし、冬にはコロナ禍の第二波が来て、再び、夜間の外出ができなくなった。
パリに限らずヨーロッパ全体で言えることだが、日本の冬と比べて日照時間が短い。これまで7年間、バリ島、プーケット、ハワイ、ダハブなどビーチが生活の中心だった僕たちにとって「暗くて、寒くて、狭い」コロナ禍の冬のパリは、かなり鬱々で辛いものだった。
一方、5月~8月は日照時間がとても長い。また、コロナ禍の影響で外国人観光客がほとんどいないときに「芸術の都・パリ」をゆっくり見て回れた。移住から約1年が過ぎ、コロナ禍が収束し、喪も明けて、ようやくパリらしい生活ができるようになった感じだ。
このように人の少ないパリを日常的に楽しめる生活は、もう二度とないのではないかと思う。
ルーヴル美術館も、マルモッタン・モネ美術館も、普通では考えられないくらい空いていた。今考えると、2020年や2021年の夏は、かなり贅沢なパリ時間を過ごせていたのだ。
シャン・ド・マルス公園、セーヌ川沿いの遊歩道など、エッフェル塔を眺めながらジョギングすることも楽しみの1つだった。外出制限の規制が厳しくなったり緩和されたりしたことで、ただ「普通に外出できる」という当たり前のことに感謝できていたのもあるかもしれない。
この頃は、多くのパリジャン・パリジェンヌたちが、ジョギングを楽しんでいた。
夏本番になると、だいぶ人出が戻ってきたが、それでも今と比べると随分少なかった。パリを離れてバカンスへ行く人も増えたので、僕たちも以前のように Trusted House Sitting で猫の世話をしつつ、ブリュッセル、マルセイユ、パリ市内の別のエリアに滞在したりした。
グローバルデジタルノマドではなくなったが、やはり以前のライフスタイル基盤は自分たちの中に残っていて、コロナ禍が収束すると、デジタルノマドらしく「旅をするような暮らし」を取り入れるようになっていったのだ。
そして、1年以内に子どもを授かることができたのは何よりの喜びだった。妻が安定期に入ると、南仏プロヴァンスのラベンダー畑、フレンチアルプスの真珠と讃えられるアヌシーなど、ここぞとばかりにフランス国内の旅行にも行った。
南仏プロヴァンスのラベンター畑を見に行った旅行では、すぐ近くに凄く綺麗なひまわり畑があり、最高の笑顔でマタニティフォトを撮ることもできた。
また、この頃からパリのバドミントンクラブに参加して様々な大会に出場するようにもなり、スポーツをしながら地元の人たちと交流したため、自然とフランス語も上達した。7年ぶりの競技復帰だったが、パリのシニア大会では男子ダブルスのチャンピオンにも輝いた。
僕の場合、パリでの日本人との関わりは少なく、地元の人たちとの交流を思う存分に楽しんでいた。ベトナム系、中国系、インド系の人も多かったが、基本的にはフランス語が共通語だ。スポーツ仲間だから、年齢や職業など関係なく Vous ではなく Tu だけで話せたのも嬉しい。
そして、年の後半にはインフレを目の当たりにし、出産後の育児への準備も兼ね、パリ近郊のブローニュ=ビヤンクールに引っ越した。パリの病院までもタクシーで約20分で行けたので、出産前の通院、陣痛が始まってからの移動も問題なく、年末、長男を授かることができた。
2022年:パリ近郊での子育てと暮らし
さて、2022年の前半は、生まれて間もない息子の面倒を、妻と昼夜交代でする毎日だった。このとき、移住後しばらく経ってから子どもを授かったこともあり、フランス生活にすっかり慣れていた点がプラスに働いたと思う。
ブローニュ=ビヤンクールでの「都会にも自然にも近い暮らし」にも満足していたし、春にはコロナ禍の影響も完全に限定的になっており、パリ近郊のお花見スポットとして日本人に良く知られている「ビヤンクール公園」で、満開の桜並木を毎日のように散歩した。
一般的にパリで日本人が多く住むエリアは15区と言われていて、実際にそう思うが、最近はそのパリ15区まで「メトロ9番線で約10分」という好立地にあり、家賃も安く、公園や自然が多いブローニュ=ビヤンクールは、子育て世代の移住者から厚い支持を集めているようだ。
子育て支援の取り組みが豊富な「Centre Ludique de Boulogne-Billancourt」と呼ばれる多目的センターもあり、ここの「Ludothèque」では、たくさんの日本人親子にも出会った。
遊具のある小さな公園もあちこちにあり、セーヌ川を渡れば、ランニングに向いた素晴らしいプロムナードや、イル・サン=ジェルマン公園(Le parc de l’île Saint-Germain)がある。パリ市内の公園は、夏の晴れた日に行くと人混みができていることもあるが、近郊ではそんなことはなく、いつも広々とした空間で自然と触れ合うことができた。
このエリアはイシー=レ=ムリノー(Issy-les-Moulineaux)にあたるが、2025年には新しくRER (主要メトロ駅⇔パリ市郊外を結ぶ高速郊外鉄道)の新駅が完成する予定などもあり、大注目されているエリアだ。
実際にパリ近郊に暮らしてみると、パリとは違って近代的(というより、近未来的)な建物が多く、子持ち世帯向けのアパートやサービスも充実している。また、観光客が少ないせいか、日常的に利用するお店の店員もストレスが少ないのだろう。接客対応などは、パリのそれよりいくらか余裕があり、フレンドリーで親切なようにも感じた。
また、パリではストライキや暴動がたびたび起こるが、パリ近郊ではその影響も受けにくい。これは、オリンピックのような大きなイベントがあるときも同じで、日常生活を送るだけなら少しパリから離れている方が生活しやすい。
というわけで、これからパリで暮らすことになるかもしれない人、特に子育て世代の人には、「ブローニュ=ビヤンクール」への移住もおすすめだ。
僕たちはそんな暮らしを続ける中、2022年の後半にはコロナ禍による影響もほぼなくなり、海外旅行も問題なく行けるようになった。僕たちは約2年半ぶりに日本へ行き、京都に住んでいる両親や親戚にもようやく息子を合わせることができた。
下の写真はシャルル・ド・ゴール国際空港で撮った一枚。悲しみと、不安と、喪失感をもってパリへ渡航した2020年とは様変わりし、息子と一緒に、皆揃って笑顔で日本へ戻れたのは、本当に良かったと思う。コロナ禍に重なった不幸で予定は大きく変わったが、人は、こうして未来へ進んでいくのかもしれない。
2023年:パリ暮らしで見えてきた問題
パリとパリ近郊での3年間の暮らしは、息子が生まれたこともあり、自分たちの人生にとって全く新たなステージだった。5年以上グローバルデジタルノマドを続けていた僕たちが、世間一般的な「住む家」と「子ども」を持つというのは、非常に大きなチャレンジだったのだ。
息子も少しずつ成長し、1歳を過ぎてからは保育園に通わせることもできた。夫婦2人だけの時間をしっかりと持つことができたのは久しぶりで、将来のことについて色々話し合う時間が増えたのも、息子を保育園に通わせられるようになったこの頃からだ。
リモートワークで個人事業を営みながら育児をしつつ、パリジャンやパリジェンヌと継続的な交流を持ってフランス語を習得できたのは、この3年で僕が恩恵を受けてきた部分だ。一方、所有物や日々のルーティンによる縛りが増え、海外を飛び回る機会が大幅に減ったのも事実。デジタルノマド時代のようなフットワークの軽さは、やはり維持できなくなっていた。
そう、僕たち夫婦は「もう子どもが大人になるまでこのままパリで暮らそう」とかいう風には考えなかった。むしろ「世界中どこへ行っても暮らせる家族でいよう」という考えになった。
それは将来、息子にとっても「どこで教育を受けるか」の選択肢が増えることになる。パリはヨーロッパを代表する素晴らしい街で、パリ近郊は子育てに良い環境も揃っている。だけど、だからといって、パリ以外を知らない子どもには育てなくなかった。
そして、息子の義務教育が始まる前に、再び家族で世界を旅しようという計画を立て始めた。これこそが「セカイノマド+1」の始まりである。
以下は、バレンタインデーに「バロン・ドゥ・パリ(Ballon de Paris)」で撮影した一枚。熱気球ではなく地上とロープで繋がれた気球で、エッフェル塔を眼科にパリの景色を上空から楽しむことができる。15区のアンドレ・シトロエン公園(Parc André Citroën)にあって、パリでは少し珍しいタイプのアトラクション。冒険好きな僕たちにはピッタリだった。
パリ、もとい、すっかり気に入っていた「ブローニュ=ビヤンクール」を離れることに一抹の寂しい気持ちがあったのも確かだ。息子のおかげで、それまで少なかったパリ在住日本人との繋がりも増え始めていたし、小さな息子を連れて本当に世界旅行ができるのか不安もあった。
それでも「世界中どこへ行っても暮らせる家族でいよう」という思いを夫婦で共有しながら、同時に「将来、この国に住むのはどうだろう?」という視点を持つようにし、また以前と同じような「スローマッド」の旅を3人で始めることにした。
2023年6月、ギリシャ、アラブ首長国連邦、タイ、ベトナム、マレーシア、日本など、2人が以前から好きだった国や、まだ行ったことのない地域などを周る計画を立てて、パリ生活には一旦終止符をつけることとなった。また新たなステージへと進むために。
パリ生活3年間を振り返って
この3年間は、僕たちにとって予期せぬ出来事と挑戦の連続だった。妻の父の急逝やコロナ禍による生活の変化は辛いものだったが、同時に多くのことを学び、成長する機会にもなった。
最初の頃は喪失感と不安から始まったパリ生活も、パリの人々の優しさとサポートに支えられ徐々に安定し始めた。観光客がいない特別なパリを楽しむ贅沢な時間を持つことができたのも大きな収穫だった。日本人や日本文化に良い印象を持っている人が多いのも嬉しかった。
そして、長男の誕生とともに新しい生活がスタートし、家族としての絆がより一層深まった。パリ近郊の「ブローニュ=ビヤンクール」での生活は、自然にも恵まれた環境で子育てできる理想的な日々だった。
パリ生活の3年間、フランス語の習得や地元のバドミントンクラブでの活動を通じて、多くのパリジャンと交流し、深い絆を築くことができた。これからは、息子の成長を見守りながら、いったんフランスを離れ、再び世界を旅する計画を進めている。
今後もこのブログを通じて、僕たちの旅の記録や経験をシェアしていく予定なので、引き続き応援をよろしくお願いします。