子供の頃、田舎のおばあちゃんちへ遊びに行く友達が羨ましかった人はいないだろうか? 自分はそうだった。もう少し正確に言えば、遠くにある田舎のおばあちゃんちだ。普段とは違う場所へ行ける友達と、おばあちゃんの家がすぐ近くにある自分。知らない場所に行ける友達のことが羨ましくて仕方なかった。だから、大人になったら田舎が欲しいと思った。
考えてみれば「隣の芝生は青く見える」というだけのこと。だけど、子供の頃のこういった感情って意外にも強く残っている。そのことが影響し、大人になってからは自分から行動を起こして「よく遠くへ行く人」になった気がする。同じ境遇の人、きっといるよね。これはあるある話として面白い。子供の頃に「田舎のおばあちゃんち」があったかなかったかで、大人になってからの性格や行動にどれほど影響があるのか? 今回はそんなお話。
今の子供たちにも同じことが言えるなら、親にとっても無視できない話である。
田舎のおばあちゃんちは家族の特権!?
まず、僕の両親は、2人とも京都育ち。だから子供の頃、僕の「おばあちゃんち」は日常の中にあるものだった。いま振り返ると、「夏休みは田舎のおばあちゃんちへ遊びに行く」と嬉しそうに話す友達を、心の底から羨ましいと感じていた。毎年、四国や九州の方へ遊びに行ける友達たちと、いつも拠点が同じ自分。おばあちゃんちが田舎にあるって、ズルい! だって、どうして自分は、友達のように「簡単に」遠いところへ行けないのか。
―もし将来、自分に子供ができたら、夏休みには「田舎のおばあちゃんち」に連れていって思いっきり遊ばせてやりたい。しかも、父方と母方で違う田舎につれていってやりたい。
大人になってからは、そんなことも考えたり考えなかったり。京都で暮らす家族兄弟たちを尻目に、自分の将来の勤務先、付き合う相手の出身地などを見つつ、どこに拠点を置くのが良いかを探っていた。心のどこかで「同じ場所で一生を終えるのは嫌だ」とも感じていた。
ただ、このときはまだ、自分がフランス人と結婚をして世界各地で仕事の拠点を持つことになるとは思ってもいなかった。とはいえ、京都から東京へ出たとき、関西の人と結婚をする可能性はもうなくなったなと感じた。おかしな話だけど、せっかく都会に出て新しい拠点を持てたのに、わざわざ同郷の人と一緒になるなんてワクワクできなかったのだ。
田舎のおばあちゃんちが羨ましい理由
自分の子供の頃の記憶も辿りながら、なぜ「夏休みに田舎のおばあちゃんちに行く友達」が羨ましかったのか考えてみる。田舎という言葉には「都会の反対語」「実家のある故郷」という2つの意味が含まれている。実際には、小説やドラマや映画、周りの人たちが描写するそれぞれの「田舎のイメージ」が入り混じって出来ているはずだが、本当は人それぞれ。
京都出身の僕と、パリ出身の妻。僕たち2人にとっての「田舎」はこんな組み合わせだ。
田舎のおばあちゃんちが「京都」と「パリ」ということになれば、これはこれで凄い特権である。自分が子供の頃、夏休みにどこへ遊びに行くかと聞かれ「パリのおばあちゃんち」と答えられていたら、逆に周りから羨ましがられていたに違いない。でも、それはそれ。別物である。かつて僕が子供の頃に心に描いていた日本らしい「田舎」には、別の魅力がある。極端なことを言えば、それぞれの田舎にはそれぞれの魅力があるのである。
例えば、もし僕たち2人が「日本の豊かな自然を子供たちに見せてやりたい」と思っても、「毎年のように」四国や九州へ行くことは簡単とは言えない。おじいちゃんと一緒に渓谷に釣りへ行ったり、縁側でスイカを食べながら夜空の打ち上げ花火を眺めたり、毎年決まって田舎ならではの体験ができるのは、やはり地方に田舎のある子供たちの特権だろう。子供の目線から見て、友達が遊びに行く「自分とは別の田舎」を羨ましく感じるのは当然だ。
おばあちゃんちが遠いか近いかの差
繰り返しになるが、子供の頃、僕にとっての「おばあちゃんち」は遠い場所ではなかった。だから、友達が遊びに行く「田舎」という場所は、行き先に関係なく、その「存在」だけで羨ましかった。思い返してみると、子供の考えというのは実に直感的だ。なぜなら、それは「宮崎県に田舎が欲しい」とか「長野に田舎が欲しい」といった場所へのこだわりなど皆無だったからだ。田舎のお土産が羨ましいとか、お泊りが羨ましいとか、そういったことでもない。友達のおばあちゃんちだけ「どこか遠いところにある」のが羨ましかったのである。
大人になり、色んな場所に行ける「多拠点」の生活を自由にできるようになった今、生活は開放感に満ちあふれている。田舎を持つとは、こういうことを言うのかと。世界中を旅して暮らしていても、僕の田舎、妻の田舎である「日本」と「フランス」には気軽に帰ることができる。京都もパリも、夏休みに遊びに行くのに理想的な「自然いっぱいの田舎」ではないが、子供の頃に羨ましいと感じた「どこか遠いところ」へ気軽に行ける満足感は大きい。
田舎がある特権も自分で掴み取れる時代
子供の頃は、ただ単に「おばあちゃんちが田舎にある人って、ズルい!」と感じることしかできなかった。中でも、母親側のおばあちゃんちと、父親側のおばあちゃんち、別の田舎が2つあるような友達は、羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。当時、田舎という存在は、オモチャやテレビゲームのように「おねだり」できる代物ではなかった。だからこそ、その子供がその家庭で生まれ持った「田舎」というのは、特権だったのだ。
だが現在、大人は自分の手で「多拠点」の生活を作り上げることも簡単になった。仕事から住む場所までを変えるとなると多少の歳月は掛かるが、別荘を買うといったような明らかに贅沢な方法さえ回避すれば、少しの時間と手間を掛けることで大きな出費はいらなくなる。このことは 日本版ライフハッカー などでも良く特集されている通りだと思うし、いまや、海外の田舎暮らしを無料体験すること だって簡単になってきている。そういう時代なのだ。
もちろん、子供たち自身が努力によって子供の頃から全国や海外に飛び出せば、それ自体が引っ越しに繋がっていくケースもある。実家のある故郷という意味での田舎とは、そもそもこうして出来上がるものなのだ。
国際化が生み出す「多拠点家族」のさらに先
僕たち夫婦にとって、日本とフランス2つの国は「田舎」のような存在となった。さらに、2人ともがフリーランスという「働く場所に縛られないライフスタイル」のおかげで、その場所は2つの「拠点」ともなっている。今後さらに国際化が進んでいくと、僕たちのように国際結婚をすることで「世界の遠く離れたところに2つの拠点を持ち、別の国にも自分たちの拠点を持って暮らす人々」は増えていくだろう。時代はまた大きく変わっていくのだ。
例えば、そんな国際化の行き着く先は、3人兄弟のうちの3人ともが違う国の人と結婚するという、究極の「多拠点家族」だ。自分自身がフランス人と国際結婚をしているうえ、子供1人目の長女はイギリス人と、2人目の長男は韓国人と、3人目の次女はアメリカ人と結婚するなんていう将来もあり得る。世界が平和である限りは、そういう形の家族が増えていくはずなのだ。そして僕は、そんな将来を見てみたい。だって面白いじゃないか!
まとめ
僕は子供の頃、夏休みに「田舎のおばあちゃんちへ遊びに行く」友達のことを、羨ましいと思っていた。これは結果論かも知れないが、僕は深層心理で、就職後も京都に留まり、京都出身の誰かと結婚し、京都に家を持ち、京都で子供を育てるという将来を拒んでいた可能性がある。結果的に今、国際結婚をして海外を飛び回り、Airbnb や TrustedHouseSitters を使いながら、世界各地を転々としている自分がいる。子供の頃の素直な気持ちを取り戻したようなこの感覚は、これから先も大事にしていきたい。