子供の頃、田舎の「おばあちゃんち」へ遊びに行く友達が羨ましかった

田舎の田園道を走るローカル電車

今回は、子供の頃、田舎の「おばあちゃんち」へ遊びに行く友達が羨ましくかったという話と、そのことが僕自身の人格形成、それから現在の国際結婚に及ぼした影響について書いてみようと思う。8月、夏休み真っ只中のシーズンに入り、こういう話題は「読み物」としても面白いはずだし、生活拠点を色々な場所に持って暮らす「今後の自分自身」のためにも、ぜひ書き残しておきたい内容だからだ。

以下、昔の思い出から現在へと展開した話になるが、今でも子供たちにとっては「夏休みのあるある話」かもしれない。そうとなると、大人だってなおざりにはできない話だ。

田舎のおばあちゃんちは家族の特権!?

まず、僕の両親は、2人とも京都育ち。だから子供の頃、僕の「おばあちゃんち」は日常の中にあるものだった。いま振り返ると、「夏休みは田舎のおばあちゃんちへ遊びに行く」と嬉しそうに話す友達を、心の底から羨ましいと感じていた。毎年、四国や九州の方へ遊びに行ける友達たちと、いつも拠点が同じ自分。おばあちゃんちが田舎にあるって、ズルい! だって、どうして自分は、友達のように「簡単に」遠いところへ行けないのか。

夏休みに小川で遊ぶ子供たちのイメージ

-もし将来、自分に子供ができたら、夏休みには「田舎のおばあちゃんち」に連れていって思いっきり遊ばせてやりたい。

大人になってからは、そんなことも考えたり、考えなかったり。京都で暮らす家族兄弟たちを尻目に、自分の将来の勤務先、付き合う相手の出身地などを見つつ、どこに拠点を置くのが良いかを探っていた。まあ、そのときは最終的に自分が国際結婚をして、フリーランスで世界各地に拠点を持つことになるとは思ってもいなかったが、とにかく、将来的な僕たちの「おばあちゃんち」は、このまま行けば「京都」と「パリ」ということになりそうだ。

なぜ、羨ましい「田舎」のおばあちゃんち

縁側で食べるスイカ、これぞ夏!

子供の頃の記憶がそこまで鮮明なわけではないが、なぜ「田舎」のおばあちゃんちがあると羨ましいのか考えてみた。この田舎という言葉には、暗黙的に「実家の場所」という意味と「都会の反対語」としての意味が含まれており、現実には、小説、ドラマ、映画、周りの人などが描写するそれぞれの「田舎」のイメージが入り混じっているはずだ。そして、僕たちにとっては「京都」と「パリ」という妙な組み合わせが「田舎」に相当したりする。

田舎のおばあちゃんちが「京都」と「パリ」ということになれば、これはこれで凄い特権である。自分が子供の頃、夏休みにどこへ遊びに行くかと聞かれ「パリのおばあちゃんち」と答えられていたら、逆に周りから羨ましがられていたに違いない。でも、それはそれ。別物である。かつて僕が子供の頃に心に描いていた日本らしい「田舎」には、別の魅力がある。もっと極端なことを言えば、それぞれの田舎には、それぞれの魅力があるのである。

例えば、もし僕たち2人が「日本の豊かな自然を子供たちに見せてやりたい」と思っても、「毎年のように」四国や九州へ行くことは簡単とは言えない。おじいちゃんと一緒に渓谷に釣りへ行ったり、縁側でスイカを食べながら夜空の打ち上げ花火を眺めたり、毎年決まって田舎ならではの体験ができるのは、やはり地方に田舎のある子供たちの特権だろう。子供の目線から見ても、別の友達が遊びに行く田舎を逆に羨ましく思うことは当然なのだ。

羨ましい理由は「別の場所にある」から

夏の青い空、入道雲、そして田園風景

繰り返しになるが、子供の頃、僕にとっての「おばあちゃんち」は遠い場所ではなかった。だから、友達が遊びに行く「田舎」という場所は、行き先に関係なく、その「存在」だけで羨ましかった。思い返してみると、子供の考えというのは実に直感的だ。なぜなら、それは「宮崎県に田舎が欲しい」とか「長野に田舎が欲しい」といった場所へのこだわりなど皆無だったからだ。ただ、田舎という「どこか遠いところ」が羨ましかったのである。

大人になり、色んな場所に行ける「多拠点」の生活を自由にできるようになった今、生活は開放感に満ちあふれている。田舎を持つとは、こういうことを言うのかと。世界中を旅して暮らしていても、僕の田舎、妻の田舎である「日本」と「フランス」には気軽に帰ることができる。京都もパリも、夏休みに遊びに行くのに理想的な「自然いっぱいの田舎」ではないが、子供の頃に羨ましいと感じた「どこか遠いところ」へ気軽に行ける満足感は大きい。

田舎がある特権も自分で掴み取れる時代

白い砂浜の上に重ねられた貝殻

子供の頃は、ただ単に「おばあちゃんちが田舎にある人って、ズルい!」と感じることしかできなかった。中でも、母親側のおばあちゃんちと、父親側のおばあちゃんち、別の田舎が2つあるような友達は、羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。当時、田舎という存在は、オモチャやテレビゲームのように「おねだり」できる代物ではなかった。だからこそ、その子供がその家庭で生まれ持った「田舎」というのは、特権だったのだ。

だが現在、大人は自分の手で「多拠点」の生活を作り上げることも簡単になった。仕事から住む場所までを変えるとなると多少の歳月は掛かるが、別荘を買うといったような明らかに贅沢な方法さえ回避すれば、少しの時間と手間を掛けることで大きな出費はいらなくなる。このことは 日本版ライフハッカー などでも良く特集されている通りだと思うし、いまや、海外の田舎暮らしを無料体験すること だって簡単になってきている。そういう時代なのだ。

国際化が生み出す「多拠点家族」のさらに先

光るエッフェル塔のある風景

僕たち夫婦にとって、日本とフランス2つの国は「田舎」のような存在となった。さらに、2人ともがフリーランスという「働く場所に縛られないライフスタイル」のおかげで、その場所は2つの「拠点」ともなっている。今後さらに国際化が進んでいくと、僕たちのように国際結婚をすることで「世界の遠く離れたところに2つの拠点を持ち、別の国にも自分たちの拠点を持って暮らす人々」は増えていくだろう。時代は、また大きく変わっていくのだ。

そんな国際化の行き着く先は、例えば、3人兄弟のうちの3人ともが違う国の人と結婚するという、究極の「多拠点家族」だ。自分自身がフランス人と国際結婚をしているうえ、子供1人目の長女はイギリス人と、2人目の長男は韓国人と、3人目の次女はアメリカ人と結婚するなんていう将来もあり得る。世界が平和である限りは、そういう形の家族が増えていくはずなのだ。そして僕は、そんな将来を見てみたいとも思う。面白いじゃないか。

まとめ

アメリカ合衆国オレゴン州の逆さ富士

僕は子供の頃、夏休みに「田舎のおばあちゃんちへ遊びに行く」友達のことを、羨ましいと思っていた。これは結果論かも知れないが、僕は深層心理で、就職後も京都に留まり、京都出身の誰かと結婚し、京都に家を持ち、京都で子供を育てるという将来を拒んでいた可能性がある。結果的に今、国際結婚をして海外へと移住し、AirbnbTrustedHouseSitters を使って世界各地を転々としている自分がいる。子供の頃の素直な気持ちを取り戻したようなこの感覚を、これからも大事にしていきたい。